佐倉城址
城址公園を楽しむには、かつての城の天守閣や本丸・二の丸・土塁などの場所を巡る「本丸跡と三逕亭周辺の散策コース」が人気かつおすすめの観光方法となります。
土日祝日・桜が咲いている混雑期は散策コースが一方通行となりますが、入口付近から案内がされているので、それに従って進むようにしましょう。
本丸周辺
佐倉城址公園のメイン広場はこの本丸跡で、入場口も兼ねている一の門跡は、本丸からみてはじめての門で別名「一の御門」と呼ばれていました。ちなみに一の門とは現在でいう「門」ではなく、木造で本瓦葺の二階建ての建物でした。
門の案内を通り過ぎるとそこから本丸となり、中には天守閣・銅櫓(どうやぐら)・角櫓・御殿などが置かれていた場所などとなり、それぞれに案内がされています。
銅櫓は、佐倉城を建てた土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城から移築されたものとされていおり、造ったのは太田道灌といわれています。
二の門も一の門と同じく建物の名称で、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間の木造づくりで、武器庫として、さらには藩政をとる役所としても使われていました。
二の丸
本丸から少し離れた芝生広場では御番所・対面所の二の丸御殿跡を観ることができ、年始や五節句などの特別な時期以外は使用しなかった本丸とは対象的に、こちらの二の丸は佐倉城の歴代の城主が住んでいたといわれています。
ちなみに本丸を使用しなかった理由としては、徳川家康が本丸御殿で休憩したことで、歴代の城主たちが遠慮したからと伝わっています。
そのため、この二の丸御殿が歴代城主の寝所となり、藩士が詰めかけ勤務をしていた場所で、佐倉城の中枢を担う重要拠点として活躍しました。
幕末までこの二の丸御殿は使われていましたが、幕末には老朽化したため、新築の三の丸御殿に藩主の寝所が移ることになり、名君堀田正睦はその三の丸で最期の時間をむかえたそうです。
土塁
佐倉城は石垣を持たない「土の城」だったことが特徴的ですが、想像に難くないように土だけで外敵から城を守るためには数々の工夫が必要となるため、土を高く盛って侵入を防ぐ土塁を数カ所に置いていました。
かつての佐倉城の姿を想像できる重要なアイテム「土塁」が実在した場所にはそれぞれ説明が書かれているので、それらを巡ってみるのもおすすめです。
馬出し空濠
土城の佐倉城を守っていた工夫のひとつとして特徴的なのがこの馬出し空濠で、城門前に築いて人馬の出入りを敵に気づかせない役目を果たしていました。
歴史建造物を守るよりも目先の戦争を優先させていた明治時代に、連隊を造営させるために埋め立ててしまい、一時は姿を隠していました。
昭和46年に発掘調査が行われ、長さや深さなども確認され現在の形になりましたが、当時の深さより浅く復元されました。
佐倉連隊跡
佐倉城は、幕末に城としての役目を終えた後も、戦争の拠点・訓練所として利用されており、明治時代の西南戦争に始まって日清戦争・日露戦争・昭和に入ってからは第二次世界大戦の訓練所・病院などとしても利用され、重要な役目を果たしました。
その跡や碑は数多く当時の状態で残っており、主に下記の8箇所はひとつずつ説明看板も設けられているので、興味がある方は看板に書かれている地図を見ながら探索してみるといいでしょう。
- 1.衛兵所
- 2.兵営の便所
- 3.佐倉陸軍病院
- 4.兵士が文字を彫り込んだモッコク
- 5.車道の碑
- 6.佐倉兵営の碑
- 7.弾薬庫
- 8.訓練用の12階段
- 9.軍犬・軍馬の墓
正岡子規の句碑
「常盤木や冬されまさる城の跡」
坂の上の雲など数々の近代歴史小説にも登場している明治時代の俳人で小説・文芸評論家、または写生もしていた正岡子規の句碑が置かれています。
子規がこの佐倉で句を呼んだのは、親交があった香取秀真が旧佐倉藩士だったこと、同じく親交があった洋画家の浅井忠が幼少期を佐倉で過ごしたこととも関係があるとも言われています。
立派なつくりの句碑のすぐ横には、正岡子規が佐倉に訪れた際に読んだ他の句なども紹介されているので、ファンの方は是非一度訪れてみてください。